初めての海外出張(回顧録)

皆さん、こんにちは!
何時も業界に関する情報を、結構まじめに紹介しているので、今回は、私が初めて海外出張に行った時の思い出を回顧録として書いてみようと思います。
ほとんど、アパレルに関する話はでてきませんので、ご容赦下さい🙏🙏

 

 私が、初めて海外出張したのは、以前勤めていた会社時代の1994年(今から約28年前・当時31歳)のことで、出張先は、中国の上海(この時の中国には、携帯電話・新幹線・地下鉄・高速道路はなかった)とベトナムのホーチミンでどちらの国も初めての訪問でした。当時は、まだまだアパレルのほとんどは日本製で、海外製があったとしても韓国製という時代でした。この様な時代になぜ海外出張したのかと言うと、取引先の取引先が出資し中国上海に縫製工場をスタートさせたため、一度、後学のため訪問し、そのついでにベトナムも行ってみようという軽い考えでした。(今となっては、この様な出張は許されませんが、ある意味、いい時代でした😌。)
同行者は、取引先の社長、同業会社の課長、商社の課長の3人、平社員の私を含めて4人の出張で、私以外の3人は在阪の会社の方だったので関西空港から旅立ちました🛫。

第1の目的地・中国 上海

 上海までは関西空港から約3時間半です。当時上海の国際空港は1つ(現在は2つ)で、上海虹橋(ホンチャオ)空港といって上海市の中心の西にありました。
 まずは上海行きの飛行機の中です。取引先の社長は当然ビジネスクラス、残りの3人はサラリーマンなのでエコノミークラスです。この取引先の社長は、お酒が大好きで、機内で一人で飲むのが寂しく我々のエコノミークラスの席までやってきて飲んで、CAさんに注意を受けていたのを思い出します🥃🙇。
 上海に現地時間15:00頃(日本との時差は1時間:現地時間15:00は日本時間14:00)到着で、まず驚いたことは街なかの人の多さ、自転車の多さ、混雑、渋滞でした。その渋滞の中、国営の縫製工場へ向い視察しました。今では考えられない上海市のど真ん中に従業員何千人もいる工場で、ただ従業員の多さ・若さに驚いただけでそれ以外の印象は全く残ってません。
 工場視察のあと、ホテルにチェックインしました。取引先の社長の意向で、日本のオークラ系の花園飯店という超高級なホテルに泊まりましたが、この時以降、こんな高級ホテルに泊まることは二度とありませんでした😢。
 夕食の時間になって、これまた取引先の社長の意向で、本場の中華料理を食べに行こうということになりましたが、誰一人、中国語が話せません。中国の定番鍋の火鍋なら中国語ができなくても大丈夫という商社の課長の意見(この課長は何度か中国経験あり)で、外灘(ワイタン・以下写真)にある店で火鍋を食べ、ホテルに帰るのにタクシーを拾って花園飯店と言おうとしましたが、中国語ができなく英名Garden Hotelと言ったところ運転手は????で、今度は、紙に花園飯店と書いて見せたらまたまた????。運転手が地図を出してきてどこか?みたいな事を言ってきて我々も地図のどこにあるか探すのも一苦労でホテルに戻ったことを思い出します😰。


 二日目の上海です。得意先の得意先が出資した縫製工場を訪問。その縫製工場の真横に、日本の染色工場が立ち上げた編立・染色工場を視察しました。この日系の染色工場の編機や染色設備を見て、あまりに最新鋭で凄すぎてもう日本でアパレルを製造するのは無理だと感じました😰。
 その後の夕食は、現地の商社の駐在の方に予約をしてもらった歴史ある部屋で最高級の中華料理を楽しみました。この部屋は、日本と中国が国交を回復した1972年に、当時の首相 田中角栄と、周恩来首相が会食した部屋で、錦江飯店(ジンジェ・下記写真)のVIPルームです。料理の内容は全く覚えてませんが、田中角栄と周恩来が握手をしたと言われる額の前などで写真を撮ったり盛り上がったのを覚えています🥂。

 ちなみにこの時の為替レートは、¥100/$・¥11.86/RMB(人民元)で、現在に比べると、¥は$・RMBに対してかなり高かったので、投資に加速感があったのも当然です。当時は¥10,000をRMBに両替すると840RMBになりましたが、今日(2022年7月)では、527RMBにしかなりません、、、、😢。弱い日本円になってしまいました。

 この時は、この中国訪問が最初で最後、2度と中国には来ることは無いと思ってましたが、1995年努めていた会社が中国蘇州市に工場を設立、その工場で作る商品の営業担当になりこれ以降300回以上中国訪問することになるとは、夢にも思いませんでした🇨🇳。

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第2の目的地・ベトナムホーチミン

 第2の目的地、ベトナム ホーチミンへは、上海から直行便がなかったので香港で1泊トランジットし、ベトナム ホーチミンへ向かいました。ホーチミン空港へ着陸の際、ドズンという衝撃とともに飛行機の天井の一部が外れエアーバッグが飛び出してきて死んだかと思いました。
 到着後、韓国資本の縫製工場を訪問しました。当時は、まだベトナムにアパレルの原料がなく、多くの場合、ベトナム以外の国から原料をおくって加工貿易するという形態がほとんどでした。
 取引先の社長が、またベトナム ホーチミンへ来てみたいという不埒な理由で、スポーツウエアを面白半分で発注しましたが、この商品は、韓国の親会社が倒産し、日本に入ってくることはありませんでした。結局ノンデリを起こしましたが、「まぁえっか!」ってことで終わるぐらい、いい時代でした😃。
 この日の宿泊は、Floating Hotel(下記写真)といって、ホーチミン市内に流れるサイゴン川に浮かぶ面白いホテルでした。今は北朝鮮にあるようです。夕食時に現金が必要(当時、まだカードが使える店が少ないと聞いていた)なため、¥10,000を両替したところ、当時のレートは忘れましたが3cmぐらいのベトナムドンの札束を渡された記憶があります。

 
 ホテルにチェックイン後、Saigon Hotelだったかと思いますがベトナム料理店で夕食を満喫しこの日は終わりました。

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最終日・帰国

 最終日、私だけ帰国後の予定が入ってたため他の3人と別れ帰国です。ホーチミン→香港→関西空港というルートで帰国です。まず、雨かなんかで出発が遅れ香港空港への到着もかなり遅れました。またまた香港空港でのトランジットが混んでいて、ドイツから飛んできた関西空港行きのルフトハンザに駆け込んで間に合ったような状況でした。機内で、人間が走り回って乗れた飛行機に荷物は間に合ってないだろうな、、、と思っていたら、案の定、関西空港で荷物を受け取ることができませんでした。数週間、航空会社が荷物を探しましたが結局出てきませんでした。保険で弁済はされたものの荷物の中の、香港で買った子供への土産、ベトナムで買った訳のわからない置物は、当然、手にすることはありませんでした。

 以上が、私の初めての海外出張です。仕事のことはほとんど書いてませんが、ほとんど仕事はせず飲み食いばかりのとりとめのない話で申し訳ありませんでした。今回のこの様な回顧録を最後まで読んでいただいた方々には、本当に感謝致します。
これからも、度々、回顧録を書いていきますので、よろしければ読んで下さい‼

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